茶道と太極拳に共通するもの

「日日是好日」 にちにちこれこうじつ
  ~お茶が教えてくれた15の幸福 ~ (森下典子 著) を
最近 読み終えた。
母親のすすめで 気が向かないまま 学生時代に
茶道を習い始めた著者が いろいろ疑問を感じながらも
20年 お稽古を続 けるうちに
ある日突然 自分の中で気づいた感覚に感動 しながら
茶道の奥深さに包みこまれるようになった、 という エッセイ

私自身は 40年も昔に 裏千家茶道 を 少々 習 い
茶道 は好きだったので この本に出てくる所作の描写の中に
当時のお稽古のひとこまがよみがえってくるようだった。


そして 現在 は
太極拳教室に通い始めて ちょうど 1年が経った。
月2回で あっという間 に1年が経ち
まだまだ 套路が覚えられていないが
練習日を楽しみに 心地よく 続 けられている。
自分の体と心に向き合って 無心になれるこの時間は
あっという間に過ぎる。

始めた頃は 早く覚えたい、と 頭で考えたりしたが
先生は みんなに
「覚えなくていい。 ゆったりと この時間を楽しむこと」
 と おっしゃる。

1年経っても
全然 上達 してないなあ、いつになったら覚えられる??
という実感でいっぱいだが
どこかで目にした こんな言葉 
  「あせって練習 して 上達するものではない。
   覚えるものではなく 体にしみこんでいくものなので
   とにかく 続けること 」
  「うまくできないことを楽しむ、下手を楽しめばいい
   黄河の流れのように ゆっくりと ~」
  「その人なりに 1年やれば1年分 、3年やれば3年分
   10年やれば 10年のねうちがある」
  
なるほど~  どうやら 太極拳というのは
その人なりに 長い時間をかけて 自分で感 じていくもの、
あまりに奥が深すぎるもの である、ということを感 じるように
なってきた。
今は
「気持ちいいなあ~」  「これ 好きだなあ~」
こんな感覚を大切に とにかく続 けていければいいな、と
思うようになった。


画像
今年も 川沿いの道に 可憐な 十月桜 が咲いている


「日日是好日」 の 文章の中には
私自身の感覚と通じ合う 、あるいは そっくり重なり合う描写が
あまりにも多くて 心が震えるような気持ちで読み終えた。

例えば・・・ 
  世の中には 「すぐわかるもの」 と
 「すぐにはわからないもの」 の二種類がある。
  どんなにわかろうとあがいたところで
  その時がくるまで わからないものがあるのだ。

  ある時 突然 気づくことがある。
  ああ、こういうことだったのか!と
  ス ト ン と わかることがある。
  3年でわかるも 20年でわかるも 本人の自由
  その時まで わからなくていいのだ。

  戦国の世 茶道は武将のたしなみであったわけだが
  食うか食われるか 互いに今後また 生きて会えるかさえ
  わからない 戦国武将たちが 一人の人間に戻って
  ひたすら つかの間の「無」 つかの間の深い「安息」を求めた
  まさに 「一期一会」の空間であったかもしれない。 


茶道に限らず 
私も この歳まで生きてきて、今頃になって 
初めて ハッ!と 気づくこと とか
初めての新鮮な感覚に出会ったりすることが たしかにある。
その時までは 私は気づかなかったのだ。
何か巡り合わせがあったから その時 気づいたのだ。
そういうことだ、と思う。

私にとって
共感 、共有できる感覚が この本の中にはあふれていた。


画像
すっかり 葉っぱを落とした木々の道に 山茶花の艶やかな紅                


太極拳も茶道も 長い時代を越えて
先人たちから 連綿と受け継がれてきた 「道」 だから
その奥深さは
理屈や言葉では 到底 表現できるものではなく
言葉が追いつかない深いところにある感覚で
成り立っているもの、だと思う。


  頭で考えようとしない、こと

  今、ここにいること   今、に気持ちを集中すること

  このままでよい、ということ

  五感で 自然とつながる、こと


茶道 と 太極拳  
まったく 異質のものだと思っていた。
と いうか、 これまで 並べたり比べたりする必要性もなかった。

今は茶道はやっていないが 太極拳を習い始めたばかり。
そして 最近 「日日是好日」を読んだら
まだ 入口をくぐったばかりの太極拳の
限りない奥深さとか 難しさとか 天地とつながるような心地よさ とか
そんな感覚が 茶道と重なり合っているように感 じた。
































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